江戸時代ですが、徳川家康が幕府を開いた1603年から3代将軍の徳川家光の頃までに仕組みや大名の統制などの基盤が出来上がっていきました。また、参勤交代を導入したことで各地の産業や交通が発達するとともに、鎖国の実施によって日本固有の文化も盛んになってきました。しかし、その一方で、5代将軍徳川綱吉の時代になると徐々に幕府の財政は苦しいものとなってしまったのです。
財政が苦しいのは幕府だけではありません。参勤交代の実施で多くの費用が掛かったこともあり、藩の財政も苦しい状況に陥っていきました。大商人からお金を借りるなどでしのいでいるような現状でした。
もちろんこのような情勢は下級の武士や農民にも重くのしかかってきます。武士の生活は苦しく、農民は貧富の差が急速に進んでいくことになってしまったのです。
このような生活が苦しい中で起こってきたのが百姓一揆です。年貢の軽減などを求めて民衆が立ち上がって騒動を起こすようになったということです。
こうした背景のなかで、幕府の財政を立ちなおそうとしたのが3大改革です。享保の改革・寛政の改革・天保の改革です。
享保の改革は、8代将軍の徳川吉宗によって実施されました。3大改革の中でも将軍が自ら主導して改革を行っていくことに特徴があります。享保の改革で行った主なことは、目安箱の設置や公事方御定書の作成といったところでしょう。
目安箱というのは、庶民が思うことを書けるという方法です。民衆の意見をしっかりと取り入れようとしたものと言えるでしょう。
公事方御定書というのは裁判の基準です。判例なども取り入れた内容となっています。
寛政の改革は老中の松平定信によって実施されました。この松平定信は8代将軍徳川吉宗の孫に当たります。寛政の改革で行った主なことは、農民の出稼ぎの制限や借金の帳消しさらには朱子学の重視といったところでしょう。
農民は江戸へ出稼ぎに行くことを制限させられました。これは当時に起きた飢饉とも関連が深いと考えられるでしょう。
また旗本や御家人の財政がひっ迫していることを解消するために借金の帳消しを行いました。
そして、朱子学を非常に重視してそれ以外の学問を禁止したということも有名です。
天保の改革は老中の水野忠邦によって実施されました。水野忠邦は唐津藩出身の老中です。天保の改革で行った主なことは、農民の出稼ぎの禁止や株仲間の解散といったところでしょう。
農民は江戸への出稼ぎが禁止させられました。やはりこの時代に起こった飢饉により農村の復興に力を注ごうとしました。
また、独占的な営業権をもっていた株仲間を解散させました。あわせて風俗も取り締まっていくことになります。