日本の歴史の中で人々は不満をもつと行動を起こして自分たちの主張を訴えてくることが頻繁にありありました。代表的なことと言えば、土一揆などでしょう。長い日本の歴史でこのように人々が何かを訴えて行動を起こす時に取られた手法というのは武力行使でした。
しかし、明治時代に入って自由民権運動のような言論で主張を行うということが行われるようになったのです。まずは、自由民権運動は言論活動なのだということは忘れないようにしないといけないでしょう。
この自由民権運動の中心となった人物といえば板垣退助です。明治維新後の政治は薩摩藩や長州藩などの出身者が中心となって行っていましたので、板垣退助は国民の代表による政治を呼びかけていたのです。そして、板垣退助の呼びかけに賛同して大規模な運動へとなっていったのです。
この運動により、政府は1890年に国会を開くことを約束します。国会の開催まではまだ10年という期間がありましたので、それに備えるために板垣退助は自由党を結成し、大隈重信は立憲改進党を結成することになったのです。
憲法の草案を作成したのは伊藤博文です。ヨーロッパでドイツの憲法を学んでいます。のちに初代内閣総理大臣にもなった人物です。そしてついに1889年に大日本帝国憲法が制定されることになりました。
この憲法ですが、内容は現在の日本国憲法とは随分と異なります。主権は天皇にあり、国会や内閣や裁判所も天皇を中心とした位置付けになっています。ただ、注目べきは制限付きとはいえ選挙権が認められていたということです。
大日本帝国憲法のもとで開催される議会のことを帝国議会と呼びます。上述の約束通り第1回目は1890年に開催されています。帝国議会ですが、貴族院と衆議院の二院制になっています。選挙で議員が選ばれるのは衆議院だけです。貴族院は皇族・華族・天皇が任命した議員で構成されていました。