1603年に徳川家康が江戸幕府を開きます【関ヶ原の戦い・大阪の陣】

徳川家康が江戸幕府を開くのは1603年の出来事です。それまでは応仁の乱をきっかけとして戦国大名が台頭したことで戦乱の世の中が続いていました。もともと徳川家康は、織田信長と同盟を結んでいましたが、本能寺の変の後に全国を統一したのは豊臣秀吉でした。

 

ちなみに織田信長の念願でもあった全国統一を果たしたのは豊臣秀吉でした。しかし2度目の朝鮮出兵の翌年にはこの世を去ることになったのです。そして、豊臣秀吉の死後に起こった1600年の関ヶ原の戦いで石田光成ら率いる西軍を打ち破ることで一気に支配力を強めていくことになりました。

 

そして1603年に征夷大将軍となり、江戸幕府を開くことになります。しかし、徳川家康はこれだけでは終わりません。豊臣氏を滅ぼすべく大阪城を2度にわたって攻めることになります。これが大坂冬の陣と大坂夏の陣です。2つあわせて大阪の陣とも呼ばれます。

 

江戸幕府のしくみを整理しながら学んでいきましょう

江戸幕府のしくみをしっかりと名称や役割などに気を付けながら丁寧に学んでいくことが大切です。役職は幕府の成立当時から整備されていたわけではなく、徐々に明確になっていきますが、全体構造をしっかりと把握しておくことが大切でしょう。

 

老中

将軍が一番のトップになっていますが、そのもとで政治にあたるのが老中です。そして、老中のもとには、幕府の財政を担う勘定奉行、江戸の警備を担う町奉行、大名の監視役である大目付がありました。なお、臨時の際には大老も置かれることがありました。

 

若年寄

老中を支えるという役割を担っていたのが若年寄です。

 

寺社奉行

寺社を監視したり、取り締まったりする役割を担っていました。

 

以上は、幕府の中央における役職ですが、江戸という場所にあったこともあり、地理的に離れた京都の朝廷や西国の大名を監視するために京都所司代も設置しています。

 

大名を統制するための様々な仕組みを理解しよう

江戸幕府は大名を統制するためにいくつかの仕組みを設けています。それは、大名が必要以上に力をつけて幕府に逆らうことがないようにという配慮の意味も多分にあったと思われます。重要なポイントを整理しながら勉強を進めましょう。

 

大名は名称による区分がありました。徳川家の大名は親藩と呼ばれ、関ヶ原の戦い以前から従っていた大名は譜代と呼ばれ、関ヶ原の戦い以降に従った大名は外様と呼ばれました。あまり外様は幕府の要職には就けなかったようです。さらには、武家諸法度を制定して厳しく大名を統制しています。

 

江戸幕府による大名の統制の極め付けとも言えるのが参勤交代でしょう。3代目将軍の徳川家光によって武家諸法度に取り込まれました。これにより大名は定期的に江戸を往復しなければいけなくなり、多くの出費を負担するようになります。それは幕府からすれば、大名が幕府に反抗することを未然に防ぐという効果が見込めたはずです。

 

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