鎌倉時代の後半の大きな出来事といえば元寇の襲来です。少し中国での歴史も絡んでくるのですが、もともとはチンギスハンが1206年に建てたのがモンゴル帝国です。非常に広大な地域を支配ていました。そして、モンゴル帝国の5代皇帝となったのがフビライハンです。この時に国の名前が元に変わりました。そして領土拡大に為に、日本も視野に入れるようになったのです。
一方で、当時の日本はどうであったかというと北条氏による執権政治の最中です。この北条氏による執権政治を強固にした出来事は承久の乱でした。そもそもこのように鎌倉時代の北条氏による執権政治を支えてきたのが御家人の存在です。将軍と御家人との間の御恩と奉公という絶対的な信頼関係で支えられてきました。
元は度々日本に服属するように働きかけてきていたのですが、それを北条氏は断わり続けていたのです。そんなことが繰り返されていたので、ついに元は日本を攻めに来ることになってしまったということです。
元寇は蒙古襲来とも言われており、2度起きています。1回目は1274年であり、この時の襲来を文永の役といいます。そして2回目は1281年であり、この時の襲来を弘安の役といいます。この蒙古襲来の際に激しく戦闘を行ったのが御家人です。鎌倉時代の将軍と御家人の関係がいかに強固であったかが感じ取れます。
この2度にわたる蒙古襲来ですが、御家人たちの必死の抵抗もあって元の思惑は失敗に終わっています。暴風雨といった天候面でも鎌倉幕府側に有利に働いたとも言われています。元寇は鎌倉幕府側の勝利となったということなのです。
ここで大切な事は、どうしてこれほどまでに御家人との信頼関係が強かったのかということです。それは土地を介在した御恩と奉公により成り立っているということです。領地を将軍が守ったり、功績に応じて領地を与える見返りで御家人は必死に戦うという構図です。
この2度にわたる元寇で御家人は必至に戦いました。奉公をしたということができます。そのために多くの犠牲も払ったはずなのです。なので、本来はこれほどまでに奉公をしてくれた御家人に対して御恩をするべきなのです。具体的には領土を与えるということです。
しかし、元寇の相手は外国です。元寇での勝利によって新たに領地が増えたわけではないので、どうしても御恩を与えることが出来なくなってしまったのです。これはこれまで鎌倉幕府を支えてきた基本的な部分に揺らぎが生じることになってしまったのです。