後醍醐天皇が建武の新政をおこなったというのは有名です。1334年に後醍醐天皇が年号を建武としたことで、鎌倉時代は終わりいよいよ時代は室町時代へと移っていくことになります。そして、後醍醐天皇は天皇による新政をおこなっていくということを目指していました。
でも、どうして後醍醐天皇が建武の新政を始めるに至ったのでしょうか?もともと鎌倉時代は御家人の活躍による承久の乱で幕府は朝廷よりも支配力を強めていました。将軍と御家人との間の封建制度による強い結びつきで結束をしていたのです。
しかし、そのような結びつきに陰りを生じさせる出来事が起きました。それが元寇による蒙古襲来です。この時御家人たちは多くの犠牲を払ってまでも忠実に幕府のために戦ったのですが、幕府はそれに対する十分な見返りを与えてあげることがでいなかったのです。
そのため、御家人たちの生活は苦しいものになっていくことになり、その不満の矛先は幕府に向けられるということになっていったのです。その状況に目を付けたのが後醍醐天皇ということです。
鎌倉時代は幕府と御家人との結びつきが非常に強くてなかなか朝廷が中心となって支配するチャンスがありませんでした。でも、朝廷としてみたらいつかは自分たちの中心の世の中に戻したいと考えていたはずです。そして、元寇を機に幕府への御家人の信頼が弱まったチャンスに一声を上げたのが後醍醐天皇です。
そして、その呼びかけに応じたのが楠正成・足利尊氏・新田義貞らです。なかでも足利尊氏は京都の監視役であった六波羅探題を攻め、新田義貞は鎌倉に攻め入ることとなったのです。これで、鎌倉幕府は滅んでしまうことになってしまいました。
鎌倉幕府が滅んだ翌年の1334年から後醍醐天皇は建武の新政をはじめます。しかし、これまで味方につけていた多くの武士たちの不満を掻き立てることになってしまったのです。
まず、鎌倉幕府を倒すために味方に付いてくれた武士たちに十分な見返りをすることをしなかったということです。むしろ、公家や神社ばかりを優遇してしまいました。
また、人材の登用にも武士を軽視する傾向が強かったです。これらからは、後醍醐天皇は味方に付いてくれていた武士をできるだけ排除した世の中にしようとしていた様子を感じ取ることが出来ます。